日本人が洋装の下着というものを初めて見たのは、16世紀のことだと言います。時の権力者である豊臣秀吉に、ポルトガル人が献上した品物の中に、ズロースが含まれていたというのです。
しかし、日本人が洋装下着をつけるのは19世紀後半になってからのことです。明治維新の後、欧化政策をとる新政府は、日本人の洋装化を推し進め、上流階級の女性たちの間では「鹿鳴館スタイル」が流行します。大正12年の関東大震災を契機に、動きやすい洋装に傾倒する人も一気に増えました。
とはいえ、民俗学研究者の今和次郎の銀座街頭風俗調査で、大正14年の女性の洋装化率がわずか1%だったことからもわかるように、まだまだ洋装は一部の女性のものでした。その、女性の洋装化がなかななか進まなかった理由のひとつには、下着があげられるでしょう。それまでの日本人の下着は、腰に布を巻くだけの湯文字や、腰巻(裾よけ)が一般的で、大切なところを覆うズロースには、かなりの抵抗があったようです。そもそも、直線に裁断された布を、ひもを使って体にまとう和装と、体にフィットするように立体的に作られた洋装では、求める機能はまったく違っていたのかもしれません。
そんな中、ズロース普及のきっかけになったとされるのが、昭和7年の日本橋・白木屋百貨店の火事です。ビルから避難しようとした女性たち10数名が高層階から落下し、命を落としたのですが、これは腰巻を隠すために着物の裾を押さえるようと、ロープから手を放したためだったといわれています。その真偽のほどはわかりませんが、こうした出来事が、ズロースの普及と洋装化の加速の一因になったことは間違いありません。その後、太平洋戦争に突入し、女性たちが動きやすいモンペやズボンを着るようになったことに伴い、下着はズロースヘと急速に移行していきました。
そして、洋装下着は、一週間日替わりで下着の色を変える「七色パンティ」が流行した昭和30年代以降、ズロースからパンティヘと変わって行ったのです。実用的な下着から、おしゃれのための下着へ。下着の機能もまた、大きく変わったのでした。
ともかく、「ドロワーズ」がなまってそう呼ばれるようになったともいわれ、股下が長くゆったりとした作りである「ズロース」は、戦後、伸縮性のあるメリヤス製ものが最高級品として、日本国内で流行し、スタンダードな下着として国民に普及していったのです。